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Semio

雑念アーカイブ

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』フィクションへの逃避と現実

この映画、見返して思ったけど、「辛い現実」と「空想による現実退避」って『パンズ・ラビリンス』とまったく同じだな、と思った。主人公の結末も似たものだし。

 

 

『パンズ〜』では物語に、『ダンサー〜』ではミュージカルに主人公は逃避しているんだけど、この主人公の行動は「今映画を観ている私」に重なるわけで、観客は「映画」に逃避している。

しかもこの映画はミュージカルの練習風景(空想の舞台裏)から始まるし、途中で何度か映画を観ているシーンがある。友人が「彼女転ぶわ」と映画内の出来事を予言したり、男性客が「ミュージカルなんだから踊るに決まってるだろ!」と怒ったりする。これは「映画」は確定された作り物であって現実とは違うっていうことに自己言及している。

こう観客をゆさぶっておいて、映画の結末は日常的な現実よりも重い現実だったりする。観客も日常の中ではそういう「見ようと思えば見られる厳しい現実」を排除して、自分にとって心地良い編集された世界(空想)を現実と思い込んで生きてる。

工場で働く主人公のように、恐らく多くの人は目の前に危険な現実があるのに、空想に耽って危なっかしくそれを取り扱っている。

 

 

そして映画は、「この映画を観ているあなたの世界は変えられるでしょ?」というメッセージで終わる。

確定された世界を見せて未確定の現実を変えようとするのはフィクションの機能であるけど、それを物凄く自覚的にストーリーや演出に組み込んだ映画だったように思った。こう見ていくと、この映画は個人のレベルでも社会のレベルでも、いろいろなメタファーで捉えることができる。観る人によっていろいろなメッセージを読み込むことができるのかもしれない。