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Semio

雑念ブログセミオ

写真の境界線

amamako.hateblo.jp

この記事がとても面白かった。

 

僕も写真を撮っている。たしかに、こういった”思想”に出くわすことはままあるので、こうチャートにして分類してもらえると、とても興味深く読める。

僕としては、この思想分類についていろいろ意見があるわけではなく、何故このような”思想”が生まれてくるのだろうか、というところが気になる。

 

まず、こういう”思想”が生まれてくる背景に、写真の「定義」と「評価」という軸があるのではないか、と思う。

定義は「写真とは何か」「どこまでが写真か」というもので、どこまでのレタッチが許されるのか、写真は真実を写しているのか、機材についてのこだわりなど、写真の内容ではなく形式、写真が撮られた(仕上げられた)バックグラウンドに関する軸。

評価は「良い写真かどうか」というもので、そもそも、定義として「写真」の中に入っていないものは、「評価」されない。「絵としては良い」なんて言われてしまうこともあるだろう。

で、恐らく写真趣味人で、こういった”思想”にハマる人は、多くの場合、”思想”から考えて写真を撮っているのではなく、自分の撮ってきた写真(撮れる写真)や好きな写真を観察し、そこから逆算して”思想”に染まっているのではないか、と僕は考えている。

 多くの写真趣味人は「自分は写真を撮っている」と信じていたいし、「自分の写真は良い」と思いたいのではないかと思う。

 

 

だがしかし、「ここからここまでが写真ですよ」という明確な決まりがルールとしてあるわけではないし、「こういう写真が良い写真ですよ」という評価基準があるわけではない。そこで、捉え方が生まれ、パターンが生まれ、ポジションが生まれる。

写真において、そういう”思想”が語られる要因として、もう一つ僕が重要だと思うのは、「写真を撮る」という行為が、創作活動の中では異常に簡単だということだ。特に写真がデジタル化されてからは。

写真っていうのは、機械のボタンを押すと、表現のフレームの中身が全て満たされてしまう。ある意味、それで「写真」として完成してしまうわけだ。

僕の経験として、タッチパネル液晶のカメラを使っていた時に、首からかけていたカメラのシャッター(タッチシャッター機能によって)を知らず知らずに切っていて、PCで開いた時に、全然自分の知らない写真が出てきたことがあった。これも写真であった。

つまり、写真というのはあまりに簡単に撮れてしまうが故に、「では、自分は何をしたのか」という反省を必然的に促してしまうのではないだろうか。

オート露出やオートフォーカスデジタルカメラが一般化したことに伴って、というか、もしかしたらこれらの機能によって写真は簡単に撮れるようになったのかもしれないが、とにかく、誰でもパシャパシャと写真を撮れるようになった。さらに、画像編集ソフトや、SNSに付属されたフィルターを使えば、ある種の色味や雰囲気を演出することも容易になった。

とにかく、この「簡単さ」が反省を生み、それが”思想”に繋がっているのではないだろうか。

 

 

変な話、写真が出てきたことによって、「絵画」という領域が反省され、近現代アートの中で、アート自体を反省するアートが生まれてきたように、「写真」が誰でも撮るものとして普及するなかで、「自分の写真はお手軽写真ではない」という気持ちが、その区別を模索させ、”思想”を生むのではないか。

「写真」が「絵画」より厄介なのは、前述した通り、写真が簡単だからだ。

絵を描くには技術がいるし、再現として「上手い」「下手」というのは、パッと見で8割の人が同意しながら判断できるだろう。対象の再現でない抽象的な絵であったとしても、少なくとも自らフレームを用意し、画材を用意し、描き方を考え...というような手順を踏むわけで、写真のようにボタンを押せば撮れるようなものではない。

「写真」というのは、「絵画」以上に機械的であるから、なかなか「自分」という領域を確保するのが難しい。意識と無意識の境界が曖昧で、機械と自分の境界も判然としない。それでも「これは自分の写真だ」という我はあるし、でもその根拠をどこに見つけるのかは、各個人に委ねられている。

 

 

「定義」と「評価」を混同する見方もある。

上記事の中で紹介されている小籔さん的な発想や、コメントの中にあった、「一方のタイプの写真はプロ志向で、一方のタイプはアマチュアリズムだ」というような分類がそれである。

しかし、”思想”によって分けられている写真の内容や加工云々は、プロかアマチュアか、ということとは関係がないはずだ。

というのも、プロというのは頼まれた写真を撮らなければいけない。クライアントから「ゆるふわな女の子っぽい雰囲気のカプチーノの写真を撮ってくれ」と頼まれることは当然有り得るわけで、それをこなせるのが多分プロだ。

なので、出来上がりの写真の形式や内容によってプロ・アマ(良い・悪い)を分類することはできない。

プロである為に重要なのは、その形式でクオリティの高い写真を確実に撮れることと、さらに言えば、恐らくできるだけ多くの形式の写真を撮れることであって、むしろある種類の写真にこだわる人(”思想”を持つ人)は、プロとして写真を撮るのが難しいのではないか、とすら思える。

ともあれ上記の考え方のように、「こっちはプロ志向だ、そっちは甘ちゃんだろ」という境界を、そのまま写真の形式や内容の境界に適用してくる人はいる(恐らく主に右翼側)。生き方や、考え方、真剣さを写真のスタイルに結びつけて考えている。

そこでは写真自体よりも「態度」が重要になってくる。

 

 

何のために撮っているのか、どういうコンセプトがあるのか、明確なこだわりがあるのかとか、そういった「態度」。

そこにさらに、「あなたはどこまでを写真だと思っているのか」という「定義」に関する問いが被さる。

色を加工するのはいいのか、ゴミをPhotoshopで消して良いのか、撮って出しJPGが正当なのか、フィルムじゃないとダメなのか、処理自体でなく作為や意図が境界なのか、写真は真実を移すものなのか、いやレンズは光を捻じ曲げている、フレームは部分を切り取っている、そもそも人間も脳内で視覚を処理している……。

 

こういった問いは、もうすで写真それ自体を飛び越えている。例えば、まったく何の前情報もなく写真を見た場合、そこに写っていた物がPhotoshopで消されているかどうかなんて、写真を見ただけでは判断できない。

”思想”の中で語られているのは、写真自体ではなくて、基本的に写真のバックグラウンドである。

例えば、フィルムにこだわる人がいたとして、フィルムで撮った写真と、まったく同じ画調にレタッチされたデジタル写真をまったく同じようにプリントしたとする。内容はまったく同じ。それでも片方は写真で、片方は写真でない(少なくとも”正しい”写真ではない)というような話が、この”思想”のぶつかりの中ではあり得る。

もはや、写真の中身なんて関係がないところまで、この話は延長してしまえる。

 

僕が感じるのは、これはもはや「言葉」の問題であって、別に写真を撮る人が考えなければいけないことではない、ということである。言語学者や、もしかしたら哲学者が考えればいいことである。そこではもう、写真自体は必要ない。「写真」という概念があればいい。

 

 

”思想”にこだわる人は、自分の写真は少なくとも単なる機械的な記録ではなく、そこに自分のアイデンティティやアイデアが含まれていると考えているはずだ。

だからこそ、そこまで”思想”を強調する。写真についての”思想”を語る時、その人は写真について語っているわけではなく、「言葉」について語っているし、結局は「自分」について語っている。

 まあ”思想”とは、そういうものか。