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Semio

雑念ブログセミオ

バッチリ化粧をして遅刻すること

ちなみに僕は男なので化粧はしないのだけど、こちらの方が端的かと思って「化粧」とタイトルにつけた。

僕の場合は、化粧ではなく整髪になる。僕は出かける前に、寝癖を直し、整髪料をつけて髪の毛を整える。まあ「身だしなみ」である。

僕が悩むのは、遅刻している時である。

もう遅刻が決定している場合、整髪している時間分だけ、余分に遅刻するからである。「多少髪が乱れても急いで家を出るか、身だしなみをちゃんと整えて、その分余計に遅れるか」という選択を迫られる。(これは同じ状況で、化粧をするかどうか、するならどの程度するか、という選択と同じだと思われる。)

 

 

ここに「身だしなみ」という言葉の範囲というか、社会的な期待のようなものが現れる気がしている。

例えば、遅刻しているからといって、さすがにパジャマで家を出るのは問題だと多くの人は思うだろう。つまり、ちゃんとした服に着替える事は、余分に時間に遅れてもすべきだ、ということだ。

男性の場合、髭を剃るのはどうだろうか。無精髭を生やしているのも、あまり好ましくないと思う人が多いのではないだろうか。ということで、これも時間に値する。(といっても状況によるかもしれない。会社に行くのであれば剃ったほうがいいだろうし、友人とのちょっとした食事であれば問題ないかもしれない。)

だがしかし、化粧や整髪となると、なんかだか怪しい。人によっては「そんなんいいから、さっさと来いよ」と思う人もいるだろう。

 

 

ここから考えられるのは、身だしなみには「ベースとしての身だしなみ」と、「飾りとしての身だしなみ」の二段階がある、ということである。

ベースの身だしなみは、「マナー」と言い換えられるような物であろう。飾りとは、自己演出の為の物である。(美しく見せる、清潔に見せる、信頼感を見せる...)

自己演出は、基本的に「自分の為に」する物である。そうなると、待たされる側からすると、「遅刻者が、さらに遅刻者自身の為に時間を使った為、余計に待たされる」という自体が起きていることになる。

もし待たされている人が、複雑な気持ちになるとすれば、こういう事情があるからではないだろうか。

 

 

この話を俯瞰すれば、「飾り」としての身だしなみにどれだけ時間を掛けるかどうかが、そのまま「自分と相手、どちらを大事にしているか」というバランスの指標になっているようにも思われる。

(「人間、自分の方が大事なのは当たり前ではないか!」というような話ではなくて。)

 

 

遅刻がなければ、このような葛藤は生まれない。自分のために飾りの身だしなみを整え、相手の為にちゃんと時間に着くことができる。

しかし、遅刻する場合、全てを満たすことはできない。しかも「相手」と「自分」という等しい重さの二者択一ではなく、「待たされている相手」と「待たせている自分」のアンバランスな選択になるわけである。

そして、これが「飾り」であるがゆえに、相手はあなたがそれをしていたことを、あなたの姿を見た瞬間に理解する。あなたが何にどう時間を使ったのかの詳細が分からなくても、とりあえず「そのこと(化粧や整髪)に幾らかの時間を使ったんだ」ということは、外見から読み取られてしまう。

待たせておいて、その上自己演出をしっかりしている人に謝られても、なんだか釈然としない。少なくともそういう気持ちになる人がいてもおかしくはないだろう。

 

 

待たされている人と待たせている人が会う時、そこに罪と謝罪の妥当性、マナーと自己演出のバランス、お互いに対する尊重の気持ち、お互いの価値観とその許容範囲が渦巻いている。

面倒だから、遅刻しないようにしよう。