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雑念ブログセミオ

写真のオリジナリティ。カメラを構えてシャッターを切る、という儀式

(まず始めに、この記事では風景写真やスナップ写真のような写真の事を話す。スタジオでセットを組んだり、モデルや小道具を使って画面を作り込むような写真は話から省かれている。)

 

写真系のSNSなんかをやっていると、自分の撮った写真と酷似した写真を見つけることがある。例えば有名な観光地の写真であったり、動物園での写真であったり、公園の写真であったり、もしくはクローズアップした花の写真であったりする。

そういう写真を見ると僕個人的にはガッカリする。

これは「オリジナリティ」が崩れるからだと思う。目の前の光景をほぼ複製する機械を使っておきながら、オリジナリティにこだわるのも変な話だが、でもやっぱり、自分の撮った写真はオリジナルの写真だと思いたい気持ちはあるものだ。

 

 

レタッチやプリント云々の話は置いておいて、撮る段階の話に焦点を絞ると、写真におけるオリジナリティとは、「光景の切り取り方」の事だと考えられる。(撮る瞬間に写真を撮る人がしているのは、ほとんどそれだけなのだから。)

つまり「どう撮るか」ということだ。「何を」撮るかは実はそこまで問題ではない。多くの人が富士山を撮っているからといって、富士山の写真にオリジナリティがないとは言いきれない。

だから、同じ観光地で同じ建築物を撮っていたとしても、それはオリジナリティにとって大した問題ではなく、ここで問題になるのは、それをどういう構図で撮っているか、ということだと考えられる。つまり、「構図」にオリジナリティが詰まっていると言っても過言ではないかもしれない。

 

 

操作の方から構図を考えると、構図とはまず、「どこからどこに向かってカメラ構えているか」と言い換えられると思う。

なので、一番簡単にオリジナリティのある写真を撮る方法は、多くの人が行けない場所から撮ることである。ヘリコプターに乗ったり、登頂が困難な山に登ったりすればよい。また、立ち位置自体は平凡でも、ちょっと角度を工夫したり高さを工夫したりしてもよい(こちらの方が現実的だが、きっともう誰かがやっている可能性が高い)。

それから、偶然にそこに写る要素に頼る手もある。雲の形、歩く人、落ちているゴミなど。その瞬間にだけそこに立ち現れた構成を切り取る、という方法だ。だがしかし、これは己の努力ではどうにもならないので、自分の力ではない物に、自分のオリジナリティを頼るという捻れが立ち現れてきてしまう。

 

 

「そこにあるものを撮る」というスタイルの写真において、オリジナリティをどこに見出すのかは、とても微妙な問題であると思う。

上記では、苦労や偶然によってオリジナリティを模索する例を出したが、どちらにせよ「その瞬間そこに居た」ということが貴重だからこそ、その写真にオリジナリティを見出す余地が生まれていると考えられる。

 

 

では、その苦労や偶然を取り去った世界が来た場合を考えてみよう。

例えば、山に登ったり、上空へ飛んだりするのは、ドローンを使えばわりと簡単に実現されそうである。撮影者は家のパソコンの前にいて、ドローンを操作し、険しい山を深夜の内に登り、美しい朝焼けを快適な部屋にいながらにして撮影する、ということがこれから先有り得る。

だがしかし、これでもまあ、アクセスが楽になったというだけで、大して話は変わらないかもしれない。

 

 

もう少し話を進めて、グーグル・マップ的な物を考えてみよう。

未来に、例えば、現実世界をそのまま3Dで再現できるようなシステムができたとする。その中に入れば、どの位置に立って、どの方向を見るかも自由自在で、かつ時間も巻き戻したり早送りしたりできるとする。つまり、映像のスクリーンショットを撮るように写真を撮れる時代が来たと考えてみよう。

そうすると、「その瞬間そこに居た」というオリジナリティの保証は全て崩れ去る。いつでも誰でも、そこでそれを見られる、となれば、あなたが写真を撮ることの貴重さは1ミリもなくなる。

 

 

今、写真を撮るには、自分の身体を介在させる必要がある。自分でそこへ行き、自分でカメラを構え、自分でシャッターを切る必要がある。そこには、写真と自分が時間と空間を共有しているという事実がある。

結局、僕たちが自分の写真に感じる「オリジナリティ」とは、もしかしたら、写真自体というよりは、「自分の体を動かして撮ってきた」という、この運動の問題なのかもしれない。

しかし、身体と撮影は切り離される可能性が十分にある。ドローン撮影の写真はすでに出回っているし、上記のスクショ撮影のような事がありえたら、自分の身体とは時間も空間もまったく切り離された写真が撮れることになる。

 

 

それでも「オリジナリティ」という言葉の中身を探すとすれば、それは「選択」になるのだろうと思う。

今現在、撮影は身体に縛られているので、そもそもすべての場所に出掛けることはできない。そこに苦労や偶然があり、それが貴重さを生み、オリジナリティの感覚を生み出している。

しかし、撮影が身体から解放されると、すべての人がすべての場所で撮影できることになる。ある意味、まったくフェアな環境になる。(もちろん、写真に割ける時間という意味では完全にフェアにはならないだろうが)

そこで問題になるのは、ただただ「どの位置、どの角度をあなたは選択するのか」ということだけになるだろう。

写真にオリジナリティがあるとしたら、ただ、そのことだけなのではないだろうか。