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雑念アーカイブ

言葉の解像度

どうして学者や哲学者の書く文章は難しいのか。

それは彼らの使う言葉が難しいからである。

ではなぜ彼らの使う言葉は難しいのか。

それは、彼らの見ている世界が、僕らの見ている世界より、ずっと解像度が高いからなのだと思う。

 

 

例えば、ここで出した「解像度」は一般には「比喩」で済むわけだけど、言語学者にとってこの「比喩」は、「メタファー」なのか「メトニミー」なのか「シネクドキ」なのか、とさらに細かい単位で見えてくるわけなのだと思う。

「これは比喩ですよ」と言われれば大体皆すぐ理解できる。しかし、「これはシネクドキなのです」と言われても一般の人は理解できない。

だが、これはいたずらに難解に言っているのではない。

 

 

僕らが「色」という全体の中に「赤」や「緑」や「青」という差が当然あると考えるように、彼らにとっては「比喩」の中にさまざまな種類があるのは当然だし、それを言い分けるのは当たり前といえる。

そして、僕らがいちいち「赤とは何か」と毎回言わないように、彼らもそういう言葉を当然の物として使うから、彼らの文章は難しいのである。

 

 

僕らはぼんやりと世界を見ているから、いつもぼんやりとした言葉を使っていて、それでも気にならないわけだけど、彼らはよりハッキリと世界を見ているから、ぼんやりとした言葉では足りないわけで、そうするとある言葉の内側にまた新しい言葉を分岐させるわけだから、どんどん言い回しが回りくどくて難解になるわけなのだと思う。

言い換えれば語彙というのは、知性の目盛りみたいなものだと考えられるかもしれない。

僕らがミリまでの定規しか持っていない時に、彼らは1ミクロンまでの定規を持っている。

だから逆に、彼らの本を読むということは、僕らの未熟な定規に目盛りを刻みつけていく行為なのではないか。

 

 

という例え話。